10.指使いのいろいろ 先珠

9を足したければ1を取って10を足す
8を足したければ2を取って10を足す…

繰り上がりの足し算は「補数を取って10に繰り上がる」だった。このときに、どうして補数を引く方が先なのか? 10に繰り上がってから補数を引いたほうが分かりやすいのではないかと思った人もいるだろう。
4+6を例にとると、
「4を引いてから10を足すか(方法A)」
「10を加えてから4を引くか(方法B)」
だ。
これは、どの順で珠をはじくかなので「運珠」の問題になる。
どちらが正しいかはよく問題になるところだが、運珠に関しての古い記述をいくつか紹介しよう。といっても、江戸時代の有名な和算書には加減に関する記述がほとんどない。『割算書』や『塵劫記』といった有名な和算書も掛け算、割り算の説明から始まっている。
明治時代に入り、田中矢徳の『珠算教科書』(明治29)という本の中には運珠の六つの方法が載っている。足し算である加法として三つ「添入」「上添下排」「下排上進」、引き算である減法として「排開」「添下上排」「上退下加」三つ書かれている。
 順に説明しておこう。足し算のはじめにある「添入」とは普通に数を入れることである。「上添下排」の上とは五珠であり、下は一珠。よって、五珠を入れて一珠をはらうことである。そして、「下排上進」は下位の位において補数を引き、上位の位に一つ進むという意味となる。引き算のほうは、足し算の珠の動きの逆となっている。「排開」とはそのままの数字を引くことで、「添下上排」とは一珠を加えて五珠をはらう。「上退下加」とは上位の位から1を引いて、下位の位にその補数を加えることとなる。
 この記述に従うと、先ほどの4に6を足す場合は「下排上進」となり、6の補数4を引いてから10の位に1繰り上がればいいことになる。
 中国の算書にはさらに古い時代の記述が残っている。16世紀末の『盤珠算法』(1573)は初めてそろばんの図付きで加減の説明を述べた書だが、この中で4に6をたすときは、「六退四進一十」と書かれている。「6は4を退けて、十に進む」という意味だ。また、同時代の『算法統宗』(1592)には「六退四環一十」と、17世紀初頭の『算法指南』には「六退四環十」と多少の異なりはあるにせよ、「4を取って10にあがる」方法が説明されている。
これらの資料から、中国でも方法Aが取られていたことが見て取れる。
となると、先に繰り上がってから、補数を引く方法Bは間違いなのだろうか。いや、間違いともいえないようである。人差し指一本ではじく方法に「一指法」と名前がついていたように、この方法Bにも、「先珠(さきだま)」という名前がついている。実際に中国の古い算書の中には「先珠」で説明されているものもある。
そろばんの世界はあまり形にこだわっていない。一つの形を決めそれ以外を「間違い」と切り捨てるのではなく、「一指法」にしろ、「先珠」にしろ別法に名前をつけ、それはそれと認めている。
 この先珠で思い出すことがある。海外から来た人にそろばんを教えていたときのことだが、実は圧倒的に先珠のほうがわかりやすいという人が多かった。先の4に6を加える問題でも、先に10を入れ、そのあとで、入れすぎた分の4を取る。算数を一通り学んだ大人に取ってはそのほうが理にかなっているのかもしれない。そろばんの考え方としては、「先に補数を取ってから10に上がる」なのでそうしてほしい」といっても、直そうとしない人も多かったうえに、直せない人もいた。日本人と西洋人の数の捉え方の違いは別のところで論じることにするが、海外の人を教えるに当たって印象に残っていることの一つだ。
 また、私が小学生のころ、テレビ番組でそろばんの達人の技を紹介していたことがあった。テレビに出るくらいだから、おそらくそろばん日本一だったのだろう。その人の指使いが「先珠」だったのだ。何かしら自分の指使いと違うなあと思いながら見ていたのだが、よく見ると繰り上がりを先にしてから補数を引いていた。幼かった私は、自分と違う達人の指使いに憧れた。
「この指使いを真似すれば、もっとうまくなるに違いない」
 しかし、今まで慣れ親しんだ指使いを変えるのは一朝一夕にはいかない。今までの指使いが無意識のうちに出てしまう。当時の先生に聞いてみたが「先珠ね」と一言返ってきただけだった。
いつの間にか、先珠に変える努力もしなくなり、今までどおりの方法で練習を続けていた。