スキポール空港のトイレ

 オランダの玄関口、アムステルダムスキポール空港に着いたときのことだ。わたしはとりあえず空港を出る前に用を足しておこうとトイレに向かった。海外の場合、空港の外に出てしまうとトイレを探すのにひと苦労だし、お金を払わねばならない場合も少なくは無い。
使い慣れた日本のトイレとは違う独特の雰囲気を感じながら、中に入っていった。ズボンのチャックに手をかけながら小便器の中に目をやる。するとなにやら黒いものが目に入った。正体はハエ。けれど、目を凝らしてよく見ると、本物ではない。描かれた絵のハエだ。
すぐに、幼い頃の記憶が蘇った。もう二十年以上前のテレビ番組の記憶だ。その番組はレポーターが海外へ出向き、その国のおもしろいところを探し、クイズ形式で出題する、今ではよくあるクイズ番組のさきがけのようなものだった。
蘇ったのはその中の一つの問題だった。
ある国の空港のオーナーには悩み事があった。男性用トイレが臭く、掃除にも経費がかさむということだ。原因は利用者が小便を便器の外にこぼすことが多いからだという。どうにかして小便を外にこぼさなくさせる方法はないものだろうか。オーナーは頭をひねった。そして、ユニークなアイデアが採用されたのだった。
トイレに行くと、もう一歩前に出てくださいといったプレートを目にすることがある。けれど、この空港ではもっと奇抜なアイデアで、大変な効果を挙げたと言うのだった。
「その奇抜なアイデアとはどういったものでしょう?」というのが問題だ。
その答えがまさしく今見ているこれ。小便器の中のハエの絵だった。ハエの絵を小便器の中に描く。すると、男性の心理として、小便をそこにいるハエに命中させたくなるというのだ。そして、小便の向かう先は自然と便器中央付近に集まり、外にこぼれることが少なくなったと言う。
幼いながらにおもしろいことを考える人もいるのだと思っていが、どこの国のどの空港かというところまではまったく覚えていなかった。
それが二十年経ち自ら出くわすとは。まだ変わりもせず残っているとは。運命を感じえずにはいられなかった。
運命を感じた以上、ぼやぼやしてはいられない。誰かに報告しなければ、記念にも残さねば、強くそう思った。しかし、ここはトイレの中である。今ここでカメラを引っぱり出し、フラッシュを焚いたとしたらどう思われるだろう。間違いなく変質者だ。思われるくらいですめばいいが、警察に連れて行かれないともかぎらない。入国早々警察行きはごめんだ。
けれど、どうしても写真に残しておきたい。
そうだ。誰もいないトイレに行けばいいのだ。
ここは入国審査を抜けてすぐのトイレだった。人が一番多い所である。
どこかに誰もいないトイレがあるはずだ。
さっと用を済まし、外に出た。トイレのマークを探し歩くこと数十メートル。手荷物受取所で次のトイレを発見した。ベルトコンベアの上をいくつもの荷物がながれ、持ち主の元へと返っていく。その人の流れとは逆に歩き、トイレへと向かう。誰もいないでくれと願いつつ中に入る。けれど、人がいた。空港の係員が二人で何かしゃべっている。ゆっくりしていても出て行きそうなそぶりもない。入って何もしないのも不自然なので一応用を足す振りをし、また外に出る。係員はまだ話している。海外ではよく見る光景だ。
同じことを二度は繰り返しただろうか。そしてやっと誰もいないトイレを発見した。手荷物受取所の一番端のトイレだった。誰もいないだけあって薄暗い。近くにあるベルトコンベアもまったく動いていない。多少の怖さも感じる。もしかしたらここにいる自分自身が一番怪しまれているのかもしれないが、そんなことにかまっていたら大事は達成されない。
さっとトイレに入る。
誰もいない。チャンスだ。
さっとカメラを取り出す。便器に向けて「カシャ」 フラッシュが光る。びくびくしながらの撮影なので念のため、もう一枚「カシャ」 写真がぶれていないことを祈り、さっと外に出た。するとすれ違いに一人中に入っていく。危機一髪だった。そしらぬ顔で自分のトランクを取りに戻っていった。そして隅でそっと写真の出来を確かめる。一枚はぶれていたが、もう一枚は撮れていた。
やった! 心の中でガッツポーズをする。
入国早々、小さな達成感を胸に私は空港を後にしたのだった。
もしアムステルダムスキポール空港に行くことがあったら、ぜひ便器の中を覗き込んでほしい。といっても誰もが自然と目を落としハエを見つけることになるのだが。
いや、そんなことはない、人類の半分の人たちにはチャンスがないのだった。
そう、女性には無理なことなのだから。