12.指使いのいろいろ ―競技の世界―

 今度は、そろばんの達人といえる、競技レベルの指使いを見てみよう。九段、十段といったそろばんの最高位を取得している人たちの指使いを見ていると、一般とは異なる場合がある。
 例えば、4+1や3+3のような、五珠を入れて一珠を取る場合だ。運手の基本は一珠を上げるのは親指、それ以外は全て人差し指なので、人差し指で五珠を下ろし、そのままの指で一珠を下ろす。しかし、そろばんの競技者の中には、人差し指で五珠下ろすと同時に、親指のつめ側を使って一珠を下ろす人も少なくは無い。まず五珠、次に一珠と二回に分けるわけではなく、一回の動作で済ましてしまおうというわけだ。
 同じような指使いでよく話題となるものがある。9から、6、7、8、9を引くときの指使いだ。人差し指を使って一珠を払ってから、五珠をはじくのか、人差し指を使って五玉をはらうのと同時に親指のつめ側を使って一珠を下ろすかだ。
基本の運手に従い二回に分けて教える先生もいれば、入門の段階から後者の指使いを教える先生もいる。一度に払ってしまう理由は、もちろん速くできるからだ。
そろばんで十段や九段取得しようと思うと、想像を絶する速さでそろばんをはじく必要がある。一つの数字を足すときに0.1秒ロスをすると、10桁の数字を足すのに1秒、それが10口あると10秒のロスだ。とにかく、0.1秒でも0.01秒でも速くそろばんをはじかねばならない。速くはじくために左手を使うのはテレビなどで一般にも知られるようになってきたし、器用に中指を使う中国人もいた。そろばんを使っているようでは時間がかかりすぎると、トップレベルの選手は全て計算を暗算で行う。兎にも角にも、速く計算をし、制限時間内のどれだけ多くの問題を解くかが求められる世界なのだ。
 競技レベルでなくても、珠算の技術はどれだけ正確に速く計算できるかで測られる。一定時間に決められた問題数を正確に計算できるかが、級や段位の取得基準になるからだ。
 「計算は速く正確に」
究極目標がまずありきならば、目標達成の為にそろばんが利用され、技術が変化していくのも自然な事といえるかもしれない。
 ここでスポーツ界を考えてみたい。スポーツの世界は目的がはっきりとした世界といえる。
どれだけ速く走れるか、泳げるか。どれだけ重いものを持ち上げられるか。誰が一番強いか。
これらの目的を達成する為に、技術は変わり進化していく。
最も分かりやすいのはスキーのジャンプ競技だろう。ジャンプ競技に求めらるのは、美しく、遠くへ飛ぶことだ。しかし、美しいだけで飛距離がなければ勝負に勝つことはできない。究極目標は、やはり遠くへ飛ぶこと。飛形の美しさは前提条件といえる。
遠くへ飛ぶ為に技術も進歩していく。昔、札幌オリンピックの頃のジャンプ選手は手をぐるぐると回しながら飛んていたという。当時はそれが最も効率的な遠くへ飛ぶ為の動作と考えられていたからだ。数年経つと、手は回さなくなりスキー板をそろえて飛ぶことが一般的となった。しかし、技術は進歩していく。今では、スキー板をそろえて飛ぶ選手は一人としておらず、皆スキー板をV字に広げて飛ぶ。それが最も効率よく浮力を得られると分かったからだ。このように、究極の目標「遠くへ飛ぶ」ために技術がどんどん変化していくわけだ。
 競技そろばんの世界では、究極は「速く計算する」ことにある。正確さは前提条件でしかない。そうなると、より速くはじく技術が求めれるわけだ。
そろばんの世界はスポーツのように科学的解明は今のところされていない。あるのは経験だ。それぞれの先生が経験に裏付けられた指使いを生徒に教えている。この塾に来ると速く上手になるよと、企業秘密のような要素もあるだろう。そう考えていくと、指使いがばらばらなのも納得がいく。
これとは対照的に、全ての作法を一つに決めている世界が「茶道」や「華道」のように「道」の付く世界だろう。一挙手一投足にいたるまで細かい作法が決められている。茶道の究極の目標はいかに早くおいしいお茶を入れるかではない。茶道の作法全てに意味を持たせ、過程を大切にする文化である。
 そろばんは「珠算道」とはならなかった。江戸時代の身分制度士農工商だったように、商人、金銭と結びつくそろばんは、武士階級からは蔑みの目で見られていたことも確かだ。
そろばんは「道」の付くものとはならなかった。しかし、計算を「より正確に、楽にする」という究極目的ははっきりしていた。楽にすることで、数学が複雑でややこしいものではなく、庶民にも身近なものして感じられるようになる。楽に計算ができれば、おのず速くなってくるものである。
そろばんは「道」にはならなかったが、庶民の中に数文化を根付かせる役目は果たした。だからこそ、江戸時代には世界に類を見ない識字率を誇り、庶民でも計算ができるという、高水準な教育文化を誇る日本が存在していたといえるだろう。